涅槃会

 涅槃(ねはん)という言葉は本来、煩悩を完全に滅した状態を表すものですが、実際には釈尊の死、あるいは僧侶の死を表す言葉として用いられることがほとんどです。
 そもそも煩悩…欲望と言い換えても良いかもしれません…を完全に滅するということが現実に可能なのでしょうか?
生身の人間である以上、食欲や性欲などの生理的な欲望が無くなることはありません。
無くすことができるのは、生理的な欲望に付随して湧き起こって来る、むさぼりや怒り、性欲と人の心が絡み合って作り出す淫らな欲望など、つまり二次的な欲望です。
 釈尊の時代、涅槃とはつまりこの二次的な欲望を滅した…或いは完全に自己の制御下に置くことが可能となった状態…を意味していたのではないかと思います。
釈尊の言行を記した初期仏典には釈尊以外の弟子達について「彼は涅槃に入っている」という記述が多く見られます。
「涅槃」が、生理的な欲望までも全て消してしまうという超人的な状態であるとは私には思えません。
あくまでも、人間の心と行いから生まれて、いつのまにかその人そのものを支配してしまうようになる悪しき欲望を心の中から追放し、あるいは少し残っていても完全に心の中で取り押さえている状態を「涅槃」というのであろうと思います。
「涅槃」が現実には無理であるなら、それを目指す仏道もまた非現実的なものとなってしまいます。
「涅槃」はあくまで現実の延長線上に考えられるべきだと思います。

私が子供の頃、「ガンダーラ」という曲が流行ったことがあります。
私もこの曲が好きでよくお風呂に入りながら口ずさんでいました。
”ガンダーラ”とは、この曲の中でユートピアを意味しています。
ユートピアは日本語では理想郷です。
現実には無い。ゆえに”理想”郷。
全ての人が幸せに暮らすなど確かに”理想”であって、現実にはあり得ないことかもしれません。
しかし、見た目は質素でも、中身が幸せならば、人は幸せなのです。
どのような環境下でも、当事者が幸せと思えれば幸せなのです。
そういう意味で”理想郷”は有る程度実現可能かもしれません。

他人のことをつべこべ言う前に、まず自分の心を整える。
長い道のりもまず足もとの一歩から。
いつの間にかもう2月。
日々是精進です。
住職記

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