思いやる心

 思いやるということは、自分がその立場だったらどうだろうかと想像力を働かせて考え、感じるということ。
想像力とは、現実にないものを頭の中で作り上げ、それを操作する力。
これは自然の中で人間だけが持つ力です。
この想像力によって、人は現在の社会を作り上げてきました。
想像力によって言葉が生まれ。
文字が生まれ。
哲学が生まれ。
芸術が生まれ。
宗教が生まれ。
科学が生まれ。
現代へと続く人類社会が作られてきました。
人を人たらしめているのは、この想像力だと言っても過言ではないでしょう。

最近、なんとなく感じることなのですが、日本の特に若い人達の想像力が、本来ピチピチとしていて然るべきなのに、なにかしなびて乾いてしまっているような気がします。
想像力がなければ、新しいものを創り出すことは出来ません。
そして、他人の心を思いやるということも出来なくなります。
小さい頃から、与えられた物や環境の枠の中でのみ育ってきている事に原因の一端があるのではと感じています。

以前、ある小学校の研究授業に行った時のこと。
秋の自然に親しむ。というような授業のテーマだったと思いますが、教室の中にビニールプール(よく家庭で夏に自宅の庭でふくらませて使うもの)が置いてあり、その中に落ち葉が沢山入れてありました。
子ども達がその中に入って落ち葉の感触に親しむ。というような趣向だったと記憶しています。
非常に印象的な光景でした。
ビニールプールに入れられた落ち葉は、現代日本の社会の縮図のように感じられました。
現実なのですが、あくまで管理された現実。
綺麗な落ち葉だけを拾ってきて、それに触れさせ、これが落ち葉ですよと説明する。
裏に嫌な虫が付いていたり、犬の糞が付いていたりということはありません。
葉っぱの裏に付いていた毛虫でひどい目に遭い、落ち葉の中で遊んでいたら下に隠れて見えなかった犬の糞を踏んづけてみたりetc
そういう嫌なことを含めて本来の自然との触れあいがあるはずです。
人間の想像力というものは、そういう日常での小さなハプニングの積み重ねで豊かになり、育てられていくのではないでしょうか。

ただ、学校の授業の中で自然との触れあいという事を取り上げるのであれば、上記のようなスタイルになるのは仕方のないことだと思います。
基本的にわざわざ学校の授業で自然との触れあいを取り上げなければならないというところに現代社会が抱えている、人間が育ち生きていくための基本的な問題があるのでしょう。
ナマの自然とあまり接することなく、人工的な環境、システムの中で育ち、生活しているのがおおかたの今の私達日本人であり、そしてそこで生まれ育つ若者達に枠をはみ出す想像力が弱くなってしまっているのも仕方の無いことなのかもしれません。

昔のテレビのコマーシャルに「ワンパクでもいい、たくましく育って欲しい…」というのがありましたが、多少の危険は承知の上で(これは難しいことですが)、もう少し”ゆるい環境”を子供達に与えるべきなのではないか… そんな風に思います。

今月11日は震災の日。
想像を遙かに超えた津波によって沢山の人が亡くなり、原発が爆発して未曾有の大惨事を起こし、未だに終息の見通しは立っていません。
津波も原発事故も、”想像を超えた”という表現がよく使われます。
しかしこれは間違いです。
”想像を超えた”ではなく、”想定を超えた”です。
人間の想像力はもっと強力です。
20m位の津波は実際に過去に三陸地方に来ていますし、原発事故もただ単に設計上そんな大きな津波を計算に入れていなかっただけのことです。
人の都合に自然は合わせてくれません。
国の人も東大の教授も大丈夫と言うし、みんなも納得しているから大丈夫なんだろう…
そういう”枠”にとらわれずに、現実を踏まえて想像力を働かせる。
そんな若者を多く育てられる社会であるべきと思います。

先月、ロシアに隕石が落ちてきました。
自然の力に人間はまったく歯が立ちません。
隕石が、或いは隕石の破片が、もし原発に当たっていたらどうだったのでしょう。
核兵器の格納施設に当たっていたら。
自然に謙虚に、しかし一方で自然の力にどのように対処するのが最善か、想像力を働かせる。
想像力は人間にとって宝物です。
そして、この想像力から人間同士お互いを思いやる心が生まれてきます。

震災で亡くなられた方々へ、衷心よりご冥福をお祈り致します。
住職合掌

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