万法すすみて自己を修証するはさとりなり

 「万法すすみて自己を修証するはさとりなり」
これは正法眼蔵の現成公案(げんじょうこうあん)の巻に出て来る言葉です。
 よく、念仏は他力本願で禅は自力本願、と言われます。
しかし、私はそれはちょっと違うように思います。
確かにただ念仏しさえすれば救われる、というのから見ると禅宗は生活を律し坐禅を組み厳しい修行をしなければならないという点で”自力”の面が強い印象があるかも知れません。
しかし、結局の所、本当の安らぎ、さとりと言われるものは向こうからやってくるものです。
自分でつかみ取った、分かった”さとり”など、所詮ただその人の我が儘、勝手な思いこみにしか過ぎません。
念仏は念仏に自己の全てを託しきる。
禅は禅に自己の全てを託しきる。
それであってこそ、仏の世界の何たるかを感じ取ることが出来るのではないでしょうか。
禅に限らず、仏教に限らず、およそ宗教と言われるものは、最終的に自分以外の何物かに自分を託すことによって成り立っていると思います。
以下、「万法すすみて〜」の言葉が出てくる一文です。

 「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」

万法というのは、”私達を取り巻いていて私達自身もその一部であるこの世界そのもの”というほどの意味。
修証というのは、曹洞宗のキーワードでもありいずれ取り上げたいと思いますが、ここでは”真実をつかむ”というほどの意味でいいと思います。
ですので、全体として上の文章の意味は、

「自分の力で世界の真実をつかむ、つまり悟りを得るというのは迷いである。世界がむこうからやってきて、真実の中に自分が取り込まれ、真実と一体化するのが悟りである。」

ということ。
究極の所は、念仏も禅も同じなのではないでしょうか。
自己を頼む心を徹底的に捨て去り、仏に自分の全てを任せ切れた時、仏の世界はむこうからやってきてくれる。
その方法が、我が宗においては只管打坐であり、念仏では専修念仏ということなのだと思います。

今年の夏は暑い夏でした。
暑かった分だけ、少し早めに秋がやってきてくれそうです。
そして、秋が終われば次はまた冬。
只管(ただひたすら)に、という思いを大切に、日々を過ごしてまいりたいと思います。
住職記

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