壺作りの器

 「壺作りの作った器が、いかなるものでも破壊をもって終わり、破壊を超えることが出来ないように、全ての生きとし生ける者どもは、死ぬきまりのもので、死をもって終わり、死を超えることは出来ない。」  原始仏典「サンユッタ・ニカーヤ」より

 11月、落ち葉の季節。
当山の境内には3本の大きな桜の木があり、毎日はらはらと落ち葉を落とすので、朝の掃除が中々大変です。
3本ともソメイヨシノで、どれも皆樹齢40年は超えていると思います。
ソメイヨシノは寿命が約60年と言われていますので、ちょうど樹として壮年期というところでしょうか。
夏、大きな涼しい木蔭を作ってくれた沢山の葉は黄色く色を変え、毎日少しずつ散っていきます。
12月になる頃にはすっかり葉が落ちて、当山の3本桜は冬支度完了となることでしょう。
桜の木に寿命があるように、木の葉にも寿命、生老病死があります。
春に木の枝に生まれ、夏に育ち、あるものはその間に虫に食われ、秋になり役目を終えて散っていく。
命の営みの一つの姿です。
私達人間も、人の集団の中に生まれ、育ち、老い、病を得、死んでゆく。
死んでゆく者もあれば、生まれてくる者もある。
結果、人の集団−家族−社会は維持され、続いていく。
誰でも死ぬのは嫌ですが、いつかは「その時」がやってきます。
桜の葉が散るように、時期が来れば私達の命もいずれ必ず散る時が来ます。

「壺作りの器」と題して引用した冒頭の文章は、仏典としてほぼ最古といわれる「サンユッタ・ニカーヤ」に釈尊の言葉として出てくるものです。
言葉は日常の言葉ですが、非常に直接的であり、はっとさせられます。
土を焼いて作った器がいつか壊れてしまうのと同じように、生あるものはいつか必ず死ぬのだと、厳しく言い切っています。
死に真正面から向き合うのは、実は非常に怖いことです。
しかし、その死を正確に捉えることなくして、本当の生を捉えることは出来ない。
釈尊の仏教の基本の基本の部分だと思います。

いつか来る死は避け得ません。
では今、どのように生きるか?
個々人にとって、誰にも相談することの出来ない、最高に個人的な、最高に大切な問題です。
住職記

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