命への共感

 先日、高校生の女の子が自宅で同級生を殺害するという事件が起きました。
非常に残酷な殺害の仕方でしたが、この事件が異常なのは、殺害の仕方もそうですが、何よりも動機です。
動機、つまりなぜ殺したのかという問いに対して犯人の女子高校生の答は「人間を解剖してみたかった」というものでした。
以前から猫を解剖したりしていたそうで、もともと普通とは違う精神を持っていたのかもしれません。
あるいは特殊な事件という範疇に入れてしまって良いのかもしれませんが、この事件の起きた地域では以前にも似たような子ども同士の非常に残酷な殺害事件が起きています。
また、有名なさかきばら事件も似通った事件でした。
時折、少年グループによるホームレスの人への暴行や殺害が報じられています。
バスジャックをして、人質を殺してしまった高校生もいます。
10代で子供を産み、虐待して殺してしまう親は後を絶ちません。
総じて、近年、小学生から高校生くらいの年代の若者による、相手を人間として見ていないのではと思えるような残酷な殺人事件が多くなっているように思います。
少子化で子どもは減っているのに、こういった事件は増えている。
残酷な事件を起こす子どもの割合は単に増えているのではなく、非常に増えていると言うべきです。
もっと深刻に受けとめるべきでしょう。
社会の非常に基本的な部分でゆがみが生じている。
そして、そのゆがみが、自意識を持ち始めた10代の子ども達の繊細な心に反映されて、先ず今回のような事件として現れて来ているのではないか?そんな感じを受けます。
先に挙げた多くの事件に共通しているのは、他者への共感の欠落だと私は思います。
刃物で指先を切ってしまったという経験は大概誰でも持っています。
ほんの少し切っただけでも、かなり痛いものです。
刃物で人を刺したり、切りつけたりすれば、どういう痛みを相手に与えるか?
自分勝手な理由で人を殺してしまう彼ら彼女らにはそういう想像が出来ないのでしょうか。
多分、想像が出来ないのではなく、相手に生じるであろう痛みに共感することが出来ないのだと私は思います。
相手の痛みを自分の(精神的な)痛みとして感じることが出来ないと言うこと。
普通、苦しんでいる人がいれば、どうしたのか声をかけ、出来れば助けてやろうとするのが一般的な人間の行動です。
しかし、先の様々な殺人事件の犯人達は、おそらく日常においてそういう感覚を持っていなかったのではないか…そんな風に感じます。
なぜそんな若者が増えているのでしょう。
私は、あまりに無機質になってしまった今の社会の日常の中にその原因があるように思います。

当寺の付近では今年の夏は蝉の当たり年で、8月は毎日ミンミンジージー大変賑やかでした。
私が子どもの頃は今年ほどではないにしても、夏に蝉が鳴くのは当たり前のことで、今夏はなんとなく子どもの頃を思い出して懐かしく蝉たちの大合唱を聞いていました。
ある日、蝉が鳴いている中、小学6年の娘に、「蝉の声って夏らしくていいな」と言った所、娘の答は「蝉は、なんかうるさいから嫌い」でした。
なんとなく力が抜けてしまいました。

今の子ども達は、都会でも田舎でも、放課後や休みの日に外で自由に群れて遊ぶということがほとんどありません。
先ず第一に少子化で子どもが減り、遊ぼうにも相手がいないということが一つ。
遊ぶ相手がそれなりにいて、遊ぶ場所もある環境だとしても、大人も変な人が増えているので、子どもだけで外で遊ばせるのは危険ということが一つ。
結局、学童保育に行くか、塾や習い事やスポーツクラブに行くか、でなければ、友達がいたとしても家の中でDS等のゲームをするか、いずれかということになります。
常に大人の監督下におかれています。
常に管理されています。
そして、このような管理された環境下では、どうしても自発性が損なわれがちです。
自分で考えなくても、指示が来るからです。
人間が社会と関わり自己を確立していく過程で、個と個がぶつかり合うことは大切なことです。
ぶつかり合う中で、人は自分の何たるかを自分の中で作り上げていきます。
管理された環境下では、どうしてもこの、個と個のぶつかり合いが減ります。
まず自発性が低いので自分を出して人とぶつかるということが少なくなり。
そして、ぶつかり合いが生じても多くの場合管理者が調整してしまう。
結果、子ども達はケガをすることも少なくなり、他者との関わりの中で心の痛みを感じることも少なくなる。
見た目おとなしく、従順な子ども達のように見えますが、一方で他者の痛みや気持ちを想像し共感する力が弱くなっているように思います。
この様な状況が時として一部の自我の強い子どもの暴走へと繋がっているのではないか。
そのように私は思います。
ネット環境という無機質な通信手段が子ども達の間で当たり前に使われてるということも子ども達同士の直接のコミュニケーションが減っている大きな要因でしょう。

さて、では私達大人はどうしたらいいのか?
難しい問題です。
ある意味時代の流れで、どうにもならないような気もします。
しかし、手をこまねいている訳にも行かない。
せめて、日常の中での子ども達の自発的な行動の芽を摘まないようにしてやり、子ども同士の喧嘩は出来るだけ子ども同士で解決させ、親や教師はなるべく介入しない。
そして、ネットでの文字だけの子ども同士のやり取りは可能な限り避ける。
必要なことは電話で直接話せばいいのです。
地域や社会全体でそういう方向へ動いていく努力はするべきではないかと思います。

日本は世界一安全で住みやすい国と言われることがあります。
しかし、それは裏を返せば世界一の管理社会ということでもあります。
人間はロボットではありません。
常に体内に矛盾を抱えた存在です。
もう少しラフな(自然な)育ちの環境を子ども達に与えてやれたらと、消えゆく蝉の声を聞きながら今、思っています。
住職記

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