三輪空寂

 「情けは人のためならず」という言葉があります。
この言葉、情けをかけてあげることは結局その人のためにならないから、やめておいた方がいい。と間違って解釈されてしまうことがあります。
しかし本来は、情けをかけるということは人(他人)の為にやっていように見えて、実は巡り巡って自分のためになることなのだ。という意味。
なかなか含蓄のある言葉です。
含蓄のある言葉ではありますが、情け(相手を思いやる行為)は良い果報を生み、それが自分に返ってくる――というこの考えは功利的な考え方とも言え、見返りを求めない無償の施し・行為を理想とする仏教においてはあまり肯定できる考え方ではありません。
見返りを求めない無償の施し・行為つまり仏教の”布施”の理想を表した言葉が表題の「三輪空寂」(さんりんくうじゃく)です。
三輪とは、 施す人・施される人・施される物の三つを言い、空寂とは、執着を離れて清らかであるという意味。
つまり、施す人、施される人、施される物、この三つが共に執着を離れ清らかであるということを意味しています。
具体的には、例えば何か人のためにしてあげたとしても、その行為の見返りを心のどこかで期待していたとしたら、それは空寂とは言えません。
情けは人のためならず(自分のため)と思って良いことをしても、空寂ではないということ。
もらう側も、「この人にはあとでお返しをしなくては…」という思いがあったら空寂ではありません。
与える者は見返りを考えずただひたすらに”与える”、与えられる者はただ純粋な感謝の気持ちとともに”いただく”。
ここに、理想の布施の姿、三輪空寂の世界があります。

 ある青年が、バスに乗っていました。
 かなり混んでいます。
 バス停でバスが停まり、一人のおばあさんが乗ってきました。
 その青年はすぐに席を立ち、おばあさんに席を譲ってあげました。
 おばあさんは、一言「ありがとう」と言ってその席に座りました。
 しばらくして、青年は降りていきました。
 ただそれだけ。
 ただそれだけなのですが、
 それを横で見ていた一人の中学生の男の子がいました。
 その男の子もただ見ていただけです。
 そして、次にまた別のおばあさんが乗ってきた時、
 その男の子はすっと立ちそのおばあさんに席を譲ってあげました。
 そのおばあさんも一言「ありがとう」とだけ言いました。
 ただそれだけ。
 あとは普通のバスの風景です。

さて、ここで、もし最初のおばあさんが「いや私はまだそんな歳じゃないから…」と言い、青年が再度勧めても、さらに「ほんの少し乗るだけですから」と固辞し、それでも青年が更に勧めてやっとおばあさんが席に座り、「本当に有り難うございます」「たすかります」「近頃は席を譲られることが少ないもので」等々謝意を長々と耳が悪いせいでしょうか大きな声で言ったとします。
狭い車内でこのやり取りは、おそらく車内の注目を浴びることになるでしょう。
この場合、横で見ていた中学生が次に乗ってきたおばあさんに席を譲るでしょうか?
細かな状況の違いがありますから一概には言えませんが、おそらく譲らないのではと思います。
すくなくとも、なんとなく譲りづらく感じるはずです。

さて、最初の例が三輪空寂の布施の姿です。
――話の腰を折るようですが、青年や中学生が座っていたのがもしシルバーシートだった場合はあたりまえですが三輪空寂とは言えません。三輪の一つである”施される物”自体がそもそもおばあさんが座るべき場所だからです。この場合青年と中学生は当たり前のことをしただけになります。――

次のおばあさんが固辞した場合の例は三輪空寂とは言えない布施の姿。
最初の三輪空寂の布施は、自然に中学生に伝わり、綺麗な布施の心がそれとは知られずに拡がっていきました。
おばあさんが固辞した場合の例では、当然青年は良いことをしたのですし、それに対しておばあさんが御礼を言うのはこれまた自然のことです。
何も悪い部分はありません。
しかし、三輪空寂とは言えない。
布施の行為は、青年の行為だけで終わってしまいました。
行為を気にしすぎるとせっかくの布施の心が拡がって行かなくなってしまいます。

与える時は、ただひたすらに与える。
もらう側は、ただ純粋に感謝の気持ちを持って頂く。
ここに三輪空寂の綺麗な布施の姿が現れ、周囲に自然に伝播していきます。
よく、人に迷惑をかけないように生きてゆく…といったことを生きていく上での心がけにしていると言われる方がおられます。
しかし、それは現実には無理です。
人間はというか、この世の中の全てのものは支え、支えられ、迷惑をかけ、かけられて存在しています。
迷惑もお互い様。
布施もお互い様。
困った時は助けてもらい、困っている人がいれば助けてあげ、気負わず、自然に支え支えられて世の中全体が動いていく。
この考え方が三輪空寂です。
住職記

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