一事をこととせざれば 一智に達することなし

 先日、新聞を読んでいたら何かのコラムに、最後の宮大工と言われる西岡常一さんとその弟子で法隆寺の宮大工として有名な小川三夫さんの次のような話が出ていました。

−−小川さんが弟子として初めに西岡さんに指示されたのは刃物を研ぐことだった。
「これより以後一年間は刃物を研ぐことだけを考えなさい。新聞、テレビ、ラジオは一切禁止。」と西岡さんに言われた。−−

以上のような内容だったのですが、調べてみたところこの話にはさらに続きがありました。
刃物研ぎの指示をして三ヶ月後、西岡さんは小川さんの目の前で自分のカンナで木を削り、向こうが透けて見えるような薄い削りかすを見せ、「これがカンナの削りかすというものだ」と削りかすを小川さんに渡したとのこと。
これが、唯一の西岡さんの指導と言えば指導で、後は何も教えるということは無かったそうです。
全て、見て覚える。
うまくいかなければ、うまくいくまで試行錯誤。
師匠の仕事を見ながら、自分で自分を鍛えていく。
ここには教えてもらうという受け身の精神は全くありません。
注意深く師匠の仕事を見、どうやったら自分がその仕事を再現することが出来るか自分で考え実行し、うまくいかなければまた工夫してやり直す。
手取り足取り教えてもらった技術は、それ以上でも以下でもなく、ただそれだけのものにしかなりません。自分の技術ではないからです。
しかし自分で苦心して会得した技や知識は全て自分自身の一部であり、次の技術や更なる知識の基礎となります。大工としての血や肉になると言うこと。
人から安易に教わったものは、身につかない。自ら苦労してつかみ取った技術が本当の技術だ…西岡さんにとってそれは当たり前のことだったのでしょう。だから小川さんにそのように接したのではないでしょうか。ごく自然に。

「一事をこととせざれば 一智に達することなし」
どのような事であれ物事を達成するには、自分でどれだけその道を求め続けることが出来るかというところに掛かっているように思います。
努力に努力を重ねたその末にいつの間にか目標と自分とが知らず知らずに重なっていく。あるいはそれが「一智に達する」ということなのかもしれません。
住職記

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