威儀即仏法

 「威儀即仏法」(いぎそくぶっぽう)という言葉は、形を正すことが即ち仏の教えであるという意味。
禅宗のなかでも、とりわけ曹洞宗は礼儀や作法といった「形」を大切にします。
私も修業時代、先輩修行僧に合掌の仕方を厳しく指導されました。肘から手首のラインが地面と平行になるように、そして指先は鼻の高さにと言われるのですが、疲れてきたり気を抜いていたりするとつい肘が下がってしまい、しょっちゅう注意されていました。
一事が万事、合掌に限らず日常の全てが仏道にかなうように生活をする。それが曹洞宗の修行です。
例えば、
朝起きて顔を洗う。洗面の仕方に作法があります。
ご飯を食べる。食事の仕方に作法があります。
お手洗いを使う。お手洗いの使い方に作法があります。
お風呂に入る。お風呂の入り方に作法があります。
就寝する。寝るときに作法があります。
およそ、朝起きてから寝るまで、作法だらけと言って過言ではありません。
しかし、その作法を守って日々を過ごしていくうちに、その作法の心も身について来るのです。
洗面の作法は、使う水を最小限にするよう工夫されています。
つまり、水を大切にすると言うこと。
食事の作法は、大勢の人が短時間で効率よく適切な量を食べられ、また洗い物もなるべく少なくなるよう工夫されています。また、作る側も食材を無駄にせず残りが出ないように工夫が求められます。
ここには、水と同様に食べ物を大切にする心が込められています。
お手洗いの作法は、とにかく綺麗に使うと言うことがその心です。
汚くなりがちなところだからこそ、綺麗に使う。
当たり前なのですが、作法として決められているがゆえ、当たり前のことを当たり前に行うことが出来ます。

時々、「和尚さんは修行で滝に打たれたりとかするんですか?」と聞かれることがありますが、曹洞宗の本来の修行で滝に打たれるということは有りません。
ただ、日常を仏道にかなうように丁寧に生きる。
水を大切にし、水に感謝し。
食べ物を大切にし、食べ物に感謝し。
人を大切にし、人に感謝し。
なすべき事をなし、なさぬべき事はなさぬよう生活する。
ただそれだけ。当たり前に大切なことを、当たり前に大切にして生きていく。
当たり前に大切なことを、当たり前に大切にして生きていると、当たり前に心が落ち着き、当たり前に人に優しくなってゆきます。
これが「威儀即仏法」(形を正すことが即ち仏の教えである)と言われるゆえんです。
住職記

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