生と死

 先日雑誌を眺めていたら、ある有名な登山家の文章が目にとまりました。
――ヒマラヤのエベレストに登ると、あまりに標高が高すぎて回収できない登山家の遺体を沢山目にする。そんな遺体を横に見ながら山を登るという行為は、生きているという実感を強烈に与えてくれる。この「生」の感覚を感じたいが為、自分はエベレストに登るのかもしれない。――
そんな内容でした。
この登山家の感じる「生」とは、つまり死の対極のものとしての生、死がそこにあるからこそ感じられるナマの生の感覚です。
私達は生きています。
それは誰でも分かっていること。
でも、この「生きている」ということを健康な人が体全体で実感することは、今のこの日本ではなかなか難しいことのように思います。
死に直接触れることなく、管理された人工的な「生」を生きている。それが今の日本社会(或いは先進国の社会)に生きる私達の実情ではないでしょうか。
安全で衛生的ではありますが、この管理の枠からはみ出したところでしか、なかなか本来の「生」を感じることが出来ない。それが今の私達です。
枠からのはみ出し方は様々です。
冒頭の登山家のように自分から冒険に出かける人も居ますが、大概は病気、けが、事故、災害等の予期しない理由で、社会のあるいは人生の”想定外”が私達にやって来ます。この想定外の来訪によって死の対極にあるものとしての「生」を初めて私達は感じます。
しかし、想定外があってもなくても生が常に死を前提としていることに変わりはありません。
死は常に隣に、そして前に”ある”のです。
その死は現実の死です。

八月は一年で一番暑い季節。
大地が熱に揺らめき、青い空に雲が湧き立ちます。
緑の木々の中で蝉が鳴き、降り注ぐ太陽の日射しのもと地面では蟻が蝉の死骸を引きずっていく。
八月中旬はお盆。
亡くなった人々の魂とともに過ごす時です。
死を身近に感じる時、生もまた身近に感じられます。
亡くなった人々の思い出とともに、死を見つめ、自らの生を見つめて下さい。
住職記

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