悲心を捨てず

 「悲心」(ひしん)とは、仏教用語で仏が衆生を憐れむ心を意味します。
簡単に言えば深い「思いやり」。
しかし、「思いやり」とは大事なところが違っています。
「思いやり」というと、つい思いやってやる側とそれを受け取る側という感覚がついて回るように思います。
考えたり行動したりする時、主体である自分とその対象とは当然ながら別のものです。
しかし、仏教においてはその主客の別をなくすところに究極の価値を見いだします。
悲心もその一つ。
悲心とは、自他の別なく、他者の悲しみや苦しみを自分の悲しみや苦しみとして感じ、その悲しみや苦しみを除こうとする心。

本来、人は他人の心に共感する力を持っています。
しかし、ほっておくと人の心は、つい驕りや慢心、怒りや憎しみ、嫉みそして様々なものへの執着によってその共感する力が弱くなっていきます。
そしてそれが固定化してしまうと他者の気持ちへの無関心となります。
よく言われることですが、人間という字は「人の間」と書きます。母親と父親によってこの世に生を受け、そして社会という共同体の中で生きている――それが人間です。
一人で生まれてくることも出来ず、一人で生きていくことも出来ない。
大きな命の繋がりの中で、その一部として生かされているのが、一人一人の人間です。
時折、親が自分を産んだのは親の勝手だ、自分は自分一人で生きていく――そう言う人がいます。
しかし、そう言う人自身いつか親になるかもしれず、また、文字通りの意味で一人で生きていくことなど出来はしません。
魚が水の中でしか生きられないのと同じように、人は人の中でしか生きられないのです。
人の中でしか生きられない――つまり社会的動物ということ。
人間は周りと関わり合って生きてゆくようにそもそも出来ているのです。
ですから、人間にとって他人は絶対的に必要な存在と言えます。
それが無ければ自分が存在しないという意味で、絶対に他人が必要なのです。
絶対に必要なものは大切にしなければなりません。
悲心という言葉によって、自他の別なく他者を思いやれと説く仏教の言っていることはある意味当たり前のことです。
当たり前のことなのですが、この当たり前のことを当たり前に日々続けていくことは、多くの欲望やそれに振り回される感情を持った人間にとって誠に難しいことです。
難しくとも、人の歩むべき道とはそのようなものであり、その道を日々精進して進んでゆくしか無いのですよ。というのが仏教の基本の部分にあると思います。

標題とした「悲心を捨てず」は、曹洞宗の祖師方への回向文(読経の功徳を回し向ける願文)の中で使われている言葉です。
僧侶としてかくあるべきという願いがこの言葉には込められているように思います。
どうぞ、生かされている自分を感じ、他者の気持ちを感じ取れる心を大切にしていって頂けたらと思います。
住職記

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