知足

 知足、足るを知る…小欲知足とも言われます。
同じような意味を持つ清貧という言葉が少し前に流行りました。
足るを知ると言うことは、様々な情報であふれかえる大量消費、飽食の現代にあって、心すべき大切なことだと思います。
まずは原典を参照してみましょう。
この知足と言う言葉、お釈迦様が亡くなる前に最後に説かれた仏遺教経というお経に出て参ります。
以下がそのくだりです。

『もし諸々の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし
知足の法は、即ちこれ富楽安穏の処なり
知足の人は地上に臥すといえども、なお安楽なりとす
不知足の者は、天堂に処すといえども、また意にかなわず
不知足の者は、富めりといえどもしかも貧しし
知足の人は貧しといえどもしかも富めり
不知足の者は、常に五欲のために牽(ひ)かれて、知足の者のために憐憫(れんみん)せらる』
−−「仏遺教経」より−−

 つまり、足るを知らないと言うことは、どこまでいっても不満足のままなので不幸であり、一方、足るを知ると言うことはどのような状態であれ満足することができるので幸せである。ということ。
ある意味、簡単と言えば簡単な理屈です。
どこかで満足しなければ、いつまで経っても不満足のままである。
だから、どこかで満足せよ。
それが、苦悩を脱する「富楽安穏」の方法である。と説かれています。
話としては単純で良く分かります。
ただ、では、どのくらいで満足しておけば良いのでしょうか?
程度の問題です。
そこが多分、現実に自分の身に引き寄せてこの「足るを知る」を実行しようと思ったときに問題になるところではないかと思います。
腹八分目、ほどほどにしておけ、少し足りない位がちょうど良い、などと言われるようにもう少し欲しいなというあたりでやめておく(満足する)のが良いのでしょうか?
可能であれば、これでもいいと思うのですが、ただ、これだと、常にもう少し欲しいという欲求を抱えたままそれを理性で押さえ込み続けるという状態になりはしないでしょうか?
常に禁欲的な努力が必要になります。
それに、常に欲求不満状態では、足るを知る「知足」とは言えないのではと思います。
ではどうすればいいのか。

 人間は欲望によって生きています。欲望があるからこそ人は生まれ、欲望があるからこそ生きてゆくことが出来る。
ただ、欲望は人の生きる原動力であると同時に、欲望が欲望を生む欲望の連鎖によって人を不幸にもしてしまいます。
欲望を完全に捨てることは、人間には出来ない。であれば、うまく制御していくしかありません。
具体的にどうするか?
一つの方法として、欲望の達成について細かく加点主義でいったらどうかと思います。
ほんの小さな事でも少しでも自分にプラスになることがあれば、それをささやかな欲望の達成と考えて、その小さな事実に感謝するのです。
見ようによってプラスにもマイナスにもなる場合は、プラスに考える。
そして、そのプラスの部分に感謝する。
 例えば、毎日日本酒二合の晩酌をする人が、ある日たまたまお酒が一合しかなかったとします。
その場合、一合しかないのではなく、一合はある。全く無いのではなく一合あって良かったと考えると言うこと。
50%欲望の達成が減ってしまったのではなく、50%は欲望が達成されたのです。
出かける前に雨が降ってきたら、「ちぇ雨が降って来やがった」と思うのではなく、傘なしで出かけてしまう前に雨が降ってくれて良かったと考える。
自分の身の上に起こる様々なことについて、これが無い、あれが足りない。ではなく、これは有る、あれは足りている。という風にプラス思考で考えるようにすれば、これこそまさに「知足」足るを知るということになるのではないか。そんな風に思います。

 人生は、自分で思っているほど長くはありません。
なんだかんだいっているうちに終点にたどり着いてしまいます。
現実は同じだとしても、不満だらけの人生と、そこそこ良いこともあったなと思える人生とどちらが良いでしょうか?
ひとつの心のあり方としてプラス思考を心掛けると言うことは、足るを知る『知足』そのものであり、心にも余裕が生まれ、まさに富楽安穏の道であるように思います。
単なるお話しや教養としてではなく、上手に人生を生きてゆく心の技術として、『知足』=プラス思考を考えてみたらいかがでしょう。
どうぞ、良い年をお過ごしください。
住職記

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