無とは

 当山では十数年前から毎週日曜日の朝に坐禅会を行っています。
時々坐禅会に来始めて間もない方に、和尚さん、心を無にするというのはどういうことなのでしょう?どうすれば良いのでしょうか?と聞かれることがあります。
良く世間では坐禅をして心を無にするとか、無になるとか言われます。
しかし実際にはなかなかそんな心の状態にはなれないものです。
なんとなく、朝の静かなお寺で静かに坐っていれば心も澄んで落ち着いて無心の境地にもなれるのではないか…と思われる気持ちは分かるのですが、現実は結局の所日常の延長線上にしか無いわけで、仕事のことやら家族のことやら日常の些細なことが頭の中に浮かんできて、とても無心と言えるような状態ではないのが普通です。
私自身も、坐禅をしていて、何も心に浮かばない、いわゆる世間で言われるような無心の状態なのかといえば、全然そんなことは無く、あ〜眠いなぁとか、今日はちょっと朝から肩が凝ってるなとか、昨日の夜食べたラーメンにニンニク入れすぎたかなぁ ちょっと臭いかなぁ とか、子供の成績のことや部活のことやらが頭に浮かんできたり、とてもとても無心などとはほど遠いのが実情です。
それでも、坐禅をし、皆で般若心経の読経を終えると何かしら心がスッとする感覚があるように思います。
そう、スッとするのです。
坐禅が心の掃除をしてくれているとでも言えば良いのでしょうか。
人間生きていると色々なものを心に抱えているのが普通です。
そんな心の中を自然に整理し掃除してくれるのが坐禅なのかな。そんな風に思えます。
そして、この心を掃除してくれる坐禅を続けていると、少しずつ自分でも分からないくらい少しずつ、余計な心の中のこだわりが消えてゆく。
こだわりが消えてゆくその遙か彼方に仏の世界があるのだろうと思います。

大切なことは、坐禅にすべてお任せすると言うこと。
自分の力で心を綺麗にしたり、心を無にしたり、こだわりを無くそうなどと思わないことです。
心を無にしようとして、無になろう無になろうと心の中で頑張ると、頑張れば頑張るほど逆に無にとらわれて、単なる無へのこだわりになってしまいます。
坐禅に全てお任せするのです。
坐禅を信じるということ。
坐禅に全てお任せして、坐禅を行じてゆく時、無心も現前し、こだわりも消えてゆくのだと思います。
住職記

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