不立文字

 不立文字(ふりゅうもんじ)は、「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」という禅宗に於いて大切とされてきた言葉の最初の句。
全体としては、「文字に頼らず、教えは別に伝わり、人の心を直にとらえ、仏となる」というほどの意味ですが、この言葉の核となる最初の「不立文字」という句だけでも良く取り上げられます。
不立文字とは、文字を立てない。つまり、文字に頼らないと言うこと。
これを、文字を使わない。という意味に取った場合…
そうすると「不立文字〜」という文字自体使えないのでは??? ということになって、なんだか変なことになってしまいます。
いわゆる『私は嘘つきです』のフレーズで知られる嘘つきのパラドックス(興味のある方はネットで調べてみて下さい)に似ています。
人を食った話が大好きな禅ならではの香りがするようにも思えますが、元来そう言う意図はこの言葉には無かったようです。

あくまでも、文字つまり言葉に過剰に頼らないという意味で「不立文字」。
人間とは複雑な生き物です。
言葉を使い複雑なことを考えることが出来るが故、悩みや問題もその分増えます。
仏教に於いてもその長い歴史の中で、理屈にこだわり、様々な煩瑣な教理が生まれ、多くの経典が作られました。
「不立文字〜」は、禅宗ではそのような教理経典には拘りませんよ、ということを標榜するために生まれた言葉です。
つまり、教祖や師や経典の言葉の一部を取り上げて意味を固定化し、信奉し拘るようなことは禅宗に於いては有りませんということ。

禅寺には三黙道場といって三つの沈黙を守らなければならない場所があります。
その中の一つである浴室に、跋陀婆羅菩薩(バッダバラボサツ)という仏さまが祀られています。
この難しい名前の仏さまはお風呂に入っているときに悟りを得られたと伝えられていて、その故事から浴室の仏さまとして祀られています。
入浴も大切な修行だと言うこと。
仏の心は、文字の中では無く、生活の中にこそ有るのですよ。ということを指し示すために「不立文字〜」という言葉はあるのだと思います。
住職記

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