鬼手仏心

 鬼手仏心(きしゅぶっしん)。
この言葉は、私が小さい頃からお世話になっているある医院の待合室に掲げられている言葉です。
鬼手とは手術という残酷な行い、仏心は相手を思う慈悲の心のこと。
手術という残酷な行いは、患者を助けようとする慈悲の心によって行われているのだという意味。
今の時代、お金や名誉のためだけに手術をする医師もいるのかもしれませんが、手術の本来的な精神をこの鬼手仏心と言う言葉は表しているようです。

鬼手(外科手術)の特徴:
鬼手は人を傷つけて人を救います。
鬼手は人を傷つけなければ人を救うことは出来ません。
鬼手は薬で治すことの出来ない怪我や病気を治すことが出来ます。

ここで思うのですが、この鬼手仏心と言う言葉、単に医師の心得にとどまらず広く人と人との関係においても場合によって心すべき考えとなるのではないでしょうか。
どういう事かというと、
思いやりの心を持って優しく接するというのは人間関係に於いて基本的に大切なことです。
しかし、優しく接しているだけではどうしても相手に通じないことがあります。
子育ての時は特にそうです。
本当に相手のことを思うとき、あえて心を鬼にして、相手の心の中に押し入って強制的に琴線をかき鳴らさないと気持ちが通じないことがあります。
つまり精神的な外科手術ということ。
心を鬼にする方も精神的に大変ですが、そうすることが必要な場面が、子育ての場面だけでなく大人対大人の人間関係に於いても人生には時々あるように思います。

今まさに平成から次の元号に変わろうとしています。
一見平和な世の中ですが、思いやりというかけ声と生暖かい無関心が地を這う煙のように広がっているように感じます。
真に思いやりの心を貫くには、相手を傷つけても相手を救う、その過程で自分も傷つくかもしれない、最悪相手を傷つけるだけで終わってしまうかもしれない、それでもその責任をも自分自身で負う覚悟を持って事に当たることが必要なのではないでしょうか。
それが鬼手仏心という言葉が表す、人を治す人の心なのだと思います。
住職記

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