四弘誓願

 日本の仏教は基本的に大乗仏教です。
大乗仏教の大乗とは大きな乗り物という意味で、自分だけが悟りを得るのではなく他の人々(あるいは命ある物全て…仏教用語で「衆生」といいます。読みはシュジョウ)を先に仏の世界へ度し(ドしと読みます。渡すこと)自らは一番最後に仏になろうという願いを教えの根本としています。
この願いの象徴が菩薩(ボサツ)。
菩薩は自ら仏になることが出来るにもかかわらず、あえてこの世にとどまり衆生を救い続けている存在です。
今回取り上げた四弘誓願(シグセイガン)はそんな菩薩の誓願(誓いと願い)を四つの言葉で表したものです。
再掲します。
 衆生無辺誓願度…無辺(無限)の衆生を全て救うことを願う
 煩悩無尽誓願断…無尽の煩悩を全て断つことを願う
 法門無量誓願学…無量の教えを全て学ぶことを願う
 仏道無上誓願成…無上の仏道を成ずることを願う

この言葉を見て思うことは、
限りなく存在する衆生(命ある物全て)を全て度す(救う)ということは、これは事実上永遠に救い続けるということであり。
尽きることの無い煩悩を全て断つということは、永遠に断ち続けるということであり。
限りなくある法門(仏の教え)を全て学ぶということは、永遠に学び続けるということであり。
そうであるなら、最後の仏道を成ずる(仏になる)ということは永遠のその先にしか無い…つまり永遠に無い。
ということです。

私が子どもの頃、ガンダーラという歌が流行ったことがあります。
故夏目雅子さん主演の西遊記というドラマのエンディングテーマでした。
−−どうしたらそこ(ユートピア)に到達できるのか分からない。
−−でも皆がそこに行くことを夢見ている。
−−なんとかしてそこに行きたい。
−−どうやったらいけるのだろうか…
そんな理想郷(ユートピア)を追い求める人々の心を歌った歌です。
切なくそして子ども心にもロマンを感じる歌でした。
古来、理想郷は洋の東西を問わず様々に語られてきました。
現実のその先に理想を求めずにいられないというのは、そもそも人間の持っている本質のように思います。
仏の世界というのも理想郷の一つと言えます。
そして、自らが求める理想が完全なものになるまで努力を止めないというのが仏教(大乗仏教)における菩薩であり、その誓いが四弘誓願です。
四弘誓願には、理想を決して諦めないという人間の永遠への思いが凝縮されているように感じます。

現実の先に理想を見い出しにくい今の世の中。
原則を大切に、自分を信じて、一歩一歩自分の道を歩んで参りましょう。
住職記

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