脚下照顧

 脚下照顧…読みは、きゃっかしょうこ。
意味は読んで字の通り脚の下を照らし顧みるということであり、よく禅宗のお寺の玄関などに掲げられています。
直接には、履き物を揃えなさいという意味で掲げられているわけですが、禅宗の言葉としては更に進めて、周りに気を取られていないで自分自身を顧みよという程の意味の警句でもあります。
禅は自己と向き合い自己を見つめることを志向します。
ですので、この脚下照顧という言葉は禅の心の基本であるとも言えます。
単に目を下に向けて脚下つまり足下を見るのは簡単ですが、しかし、自分自身の置かれている状況を現実に即して正確に把握するという心の作業はなかなか難しいことです。
人間生きていると、まさに人生色々で様々なことが起こります。
嫌なことや、困ったことや、どうして良いか分からないことやetc.
色々あります。
そんな色々ある私達の日常の中で、この難しい心の作業をどうしたら出来るのか?

それがつまり禅の修行であり坐禅なのだと思います。
お寺の本堂で静かに坐禅をして坐っていると、周りの静かな気配と心の中が同調して同じように静かになってきます。
そして、周りの音が良く聞こえてきます。
即ち周りの気配を感じると言うこと。
周りの気配のなかにいる自分という存在も感じられてきます。
これはつまりそのまま脚下照顧という言葉が示している心の姿であると思います。
上で書いたように自分自身を現実に即して把握すると言うと難しそうですが、しかし坐禅によって自然に人の心はそうなってきます。
把握するというより、感じるということ。
静かにしていると自然に人の心は周囲の気配を感じ取るように出来ているのだと思います。
そこに着目して静かさの中に体と心を留め置くのが坐禅です。
自分自分と自分のことだけ考えても自分は分かりません。
周囲を感じられてはじめてその中の”自分”を感じることが出来ます。
”自分”という言葉は、自らの分と書きます。
世界の中の自らの分つまり“自分”。
自分を感じるのが坐禅であり。
脚下照顧とは、つまり自分を知れという意味でもあります。
住職記

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