風性常住

 風性常住(ふうしょうじょうじゅう)と題して引用した今回の短いお話しは、道元禅師が書かれた正法眼蔵という本の中の現成公案の巻に出てくるものです。
原文は以下のとおり。
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麻浴山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、
「風性常住、無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。」
師いはく、「なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらず。」と。
僧いはく、「いかならむかこれ無処不周底の道理。」
ときに師、あふぎをつかふのみなり。
僧、礼拝す。
 注)風性常住:風は常にある。 無処不周:行き渡らないところはない。
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僧が和尚に問うているのは、風が常に在り、到らぬ所はないということが真理なら、なぜあなたは扇を使って風をおこしているのか?扇は要らないのでは?ということ。
それに対して和尚(師)は、おまえはまだ風が到らぬ所はないということの意味が分かっていないと返答し、更に問われても、扇を使って煽いでいるのみ。
和尚は、僧の文字面だけの風性常住・無処不周の理解に対して、現に自分たちが生きている今現在の風性常住・無処不周の道理を無言で扇を使うことによって端的に表現しています。
人は暑ければ扇を使う、扇を使うがゆえに風性常住・無処不周なのであり、風性常住・無処不周という言葉で表現されているのは人間の行為も含んだこの世界全体なのだということを和尚は扇を使うことで答えています。
考えを進めるうちに、考えの対象に自分自身も入ってしまい、次第に頭だけの思考から、世界と一体化した全身の思考へ変容していく。
禅は思考や感覚を拡げていきます。
この風性常住のお話しは、禅の考え方の道筋の典型であり、話が短くシンプルなので主題を風から仏に変えてもほぼそのまま話として成り立ちます。
以下ご紹介します。
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ある寺の和尚が静かに坐禅をしていると、僧が来て尋ねた。
僧:「仏性常住、全ては仏であると聞くが、和尚なぜ坐禅をする?」
和尚:「おまえは、全ては仏であるということを分かっていない。」
僧:「では、全ては仏であるとはどういうことか?」
和尚、ただ坐禅を続けるのみ。
僧、礼拝す。
………
いかがでしょう。
これはこれでひとまず禅問答になっているように思います。
風性常住の話の構造そのものが禅的な考え方の典型なので、このようなことが可能なのだと思います。

さて、季節はそろそろ梅雨、雨が降りつつ次第に暑くなっていきます。
外に出ると太陽が照りつけ、家にいると蒸し暑い。
扇で煽げばしのげるくらいなら良いのですが、昨今はそう言うレベルではなく。
問題の新型コロナウイルスも日本の夏の暑さの中では消えてしまうんじゃないか?
そんな風にも思えます。
風性常住。風はどこにでも吹いているのと同じように、時も常に流れゆきます。
コロナウイルスも、いずれ時の流れの中に消えてゆくのでしょう。
しかし、今は気を引き締めてコロナウイルスに対処しなければなりません。
熱中症に気をつけて、コロナウイルスに気をつけて、ちょっと大変な夏を過ごしてまいりましょう。
住職記

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