思いやり
最近、といってももう10年以上前からかも知れませんが、親が子を捨て、子が親を殺すという類の事件が後を絶ちません。
そして、そういう事件が起きる家庭というのは、取り立てて問題があるようには思えないようなごく普通の家庭であることが多いようです。
先日も、高校生の男の子が母親を殺し、頭部を切断して持ち歩くという事件がありました。
そして、数日後には、生まれたばかりの赤ちゃんを生きたままゴミ袋に入れてゴミ捨て場に捨てる(置き去り)という事件が起きました。
最近はこんな事件が日常的に起こっています。
なんとなくまたかという感じですが、冷たく恐ろしい感じと、同時になにか空しさというか、虚ろな感覚を同時に覚えます。
仏教には、自分のことと同じように他人を思いやりなさいという、思いやりの心を表す「同事」という言葉があります。
自分も他人も区別しないで、自分のことと同じように他人にも接するということ。
道元禅師は、「同事というは不違なり、自にも不違なり、他にも不違なり」と表現されています。
自他の区別を超えた自他一如の心、それが同事の心です。
ここで、「他にも不違なり」というのは他と同じということで、自他を同じに見るという意味で分かりやすいのですが、その前の「自にも不違なり」という部分はちょっと分かりづらい気がします。
自分と同じとはどういうことか?
自分は元々自分なわけで、同じと言うことにどういう意味があるのか?
これは実は大切なところだと思います。
私達は実は自分で思っているほど、自分をしっかり捉まえてはいません。
捉まえていないが故、坐禅をして修行をして、自己を見つめ、自己自身をしっかり捉まえよう分かろうとするわけです。
自分自分と思っている自分と、本来の自己とをしっかり結びつけ同化するということ、これが「自にも不違なり」の意味だと思います。
さて、ひるがえって冒頭の事件に戻ります。
私は、あのような事件を起こすような人達の心は、他人のことを思いやるという以前に、心が自分自身から通常以上に大きく乖離してしまっているのではないか? そんな風に感じています。
つまり、自分自身から離れてしまっているということ。
彼らは、普通の人が普通に持っている自分の人生を自分自身が生きているという感覚が基本的に欠如しているか、非常に希薄で、道元禅師の言葉を借りて言えば、「自にも不違」ではなくて「自にも違」状態になっているのではないか?
便利な世の中で、日常の生活から生活感が乏しくなって来ているということが、事件の背景としてあるように思います。
自分が自分から離れていく。
「自にも不違なり、他にも不違なり」ではなく、「自にも違なり、他にも違なり」という状況。
彼らにとって、自分の人生とはテレビの中で起こっているような非現実の出来事なのかもしれません。
この様な状況下では、自分自身に関してすでに当事者意識がありませんから、他人の立場に立って考えろといわれても元の立場自体無いわけで土台無理な話なのです。
彼らをもし更正させるのであれば、人のことも考えろという以前に、自分の力で生活させ、日々の生活を通じて自分自身を回復させなければならないように思います。
例えば禅の修行道場のような日常の生活そのものが厳しいところへ1年か2年入れておけば、現実に生きている自分自身を、幾分かの辛さと共に多少なりと取り戻させることができるのではないでしょうか。
そしてこのことは私達の日常生活についても言えます。
あまりに便利で居心地が良すぎると、その便利な状態が当たり前になって、それを支えている背景が目に入らなくなってしまい、人間に都合良く調整された現実を本来の現実と錯覚してしまい、この錯覚の積み重なりが、人から生きているという充足感を次第に奪っていってしまう。
一昔前は、例えば夜お腹が減っても、お店はもう開いてませんから、朝まで待つか何か家にある物で我慢するしかありませんでした。
そのような時、どうしても人はお腹の減っている自分自身と、思うようにならない現実とに向き合わざるを得ません。
さらにその状況下で、もし母や妻があり合わせの野菜を使い、戸棚の奥に一つだけ残っていたインスタントラーメンを作ってくれたら、すごく嬉しく感じるはずです。
今ではコンビニがどこにでもあり、24時間のファミレスもあります、家には電子レンジもあります。
深夜に何か食べたくなってもいかようにでも対処出来ます。
我慢の必要がないのです。
我慢の必要がないということは、自分と向き合う機会もまたないということ。
また、思うようにならない現実に手を差し伸べてくれた人への感謝の気持ちも起こりようがありません。
一事が万事、現代日本の生活は全てこの調子です。
便利な生活は、私達から生きているという現実感、充足感を奪っていくのだというこの事実から目をそらしてはいけません。
この事実の延長線上に冒頭の奇怪な事件もあるのだと思います。
私は現代の世の中では、特に成長期の子供達に、生活の場から失われてしまった、自分の欲望を我慢するという経験を無理にでも与えなければならないと思っています。
子供は我慢するという体験の中から、現実の世の中と、その中で生きている自分をその子なりに感得していくのだと思います。
なんでも便利なのが良いわけではありません。
人間とは難しい存在です。
住職合掌
”今月の言葉”に戻る