千の風

 最近、千の風という詩と歌が大変な人気です。
亡くなった人が残された人に呼びかける形で、
 私はお墓にはいない。
 風になり、光になり、あなたのそばにいる。
 だから泣かないで。
 悲しまないで。
そんな内容です。
元はアメリカの作者不詳の詩がネットで流れて有名になったらしいですが、新井満さんの訳詩と曲で現在日本では知られています。
私は、テレビで歌われる前に本で読んだのですが、心に響くいい詩だなと思うのと同時に、非常に仏教的だなとも感じました。

仏教に五大という考え方があります。
世界は地水火風空の五大要素で作られていて、人の身体も死ねばその要素に分かれ自然界へ帰るという考え方です。
ある意味、この千の風という詩は、この仏教の五大の考え方そのものです。
仏教の五大を持ち出さずとも、実際、人の肉体は、死んで自然に帰り、自然の一部となり、土となり、樹となり、水となって、自然界をめぐります。
ですから、千の風の中に、自然の営みの中に、亡くなっていった人々の存在を感じることができるという感性は誠に素晴らしいと思います。

ただ、職業柄つい気になってしまうのですが、冒頭に出てくる「私はお墓にはいません」というのは、ちょっと言い過ぎのような気がします。
自然の営みの中に故人の存在を感じられるのは、自然に帰った故人のかつての肉体がそこに融合しているからだと思います。
お墓には、かつて故人の肉体を作っていた物質の一部、遺骸であったり、骨であったりが現に残っています。
やはり故人を偲ぶのにこれ以上のよすがは無いのではないでしょうか。
それに、お詣りする場所がないというのも寂しいように思います。

ともあれ、千の風という詩は、やはりいい詩です。
人と自然の境界のないつながりを感じさせてくれます。
人と自然は対立するものではありません。
自然の中の一部が人間です。
そして常に自然は循環しています。
人間の身体を作っている物質も、生きている間でさえ常に出入りを繰り返し、自然の中で循環しています。
人は一人で生きているのではなく、全てのものに支えられて生きているというのは、結局のところこういう意味だと思います。
この世界に全く単独で存在出来るものはありません。
逆に言えば、世界は一つだということ。
山も河も雲もそして風も、私達の身体とつながっている一部だということ。

吹き渡る風はあの人の息吹
あの人の息吹は風となり、
また私の息吹となる。
朽ちた体は地に帰り、
新たな命としてよみがえる。
あなたの命も、私の命も、誰の命も、
みな同じ命の違う顔。
死んでも生きている同じ命の変化の形。

千の風の吹き渡る彼方にそんな世界を感じていただけたらと思います。
住職合掌

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