幸せは自分で作る。不幸せも自分で作る。

 仏教には唯識という考え方があります。
この世の中は全て人間の意識が自らの心の中に作り出しているものだという考え方です。
この世にあるのは唯、意識のみということ。
考えてみると、私達個人個人がどうやって世界を認識しているかというと目や耳や鼻や舌や触覚によって入ってきた情報を脳であるいは心で処理して世界を世界として認識しています。
ですので同じ景色を見ていても人によって受け取り方が違いそれぞれ印象が異なります。
つまり、100人の人がいれば100通りの現実世界があるということ。
庭に一輪の花が咲いているとします。
ある人はその花を美しいと思い、ある人はつまらない色だなと思い、ある人はその花の近くで去年まで遊んでいた死んでしまったペットの事を思い出し、ある人は興味が無いのかそもそも花の存在に気がつかない。
夜鈴虫が鳴いていると、ある人は美しい鳴き声だなと思い、ある人はただの雑音と感じる。
人間の感覚は誠に様々です。
幸せや不幸せと思う人の感覚も人により、立場により、随分違います。
今世界中には学校に行きたくてもいけない子ども達がたくさんいます。
かたや日本には学校に行きたくなくて苦労している子ども達がたくさんいます。
一方にとっては学校に行くことが幸せであり、一方にとっては学校に行くことが不幸せ。
どちらが可哀想とかどちらが良い悪いという話ではありません。
ここで言いたいことは、幸せや不幸せという感覚は私達が自ら心の中に作り出している感覚だと言うこと。
その人の心の状態で同じ現実でも幸せにもなり、不幸せにもなる。
全ては私達次第ということです。
 そして、同じ現実と見える中でも、自らを幸せと思って生きていくのと不幸せと思って生きていくのとでは、幸せと思って生きていく方が良いように思います。
大切なことは、幸せと思って生きていると不思議と現実も本当に幸せの方向に動いていくと言うこと。
紐を付けた五円玉を揺らしながら回れ回れと念じていると無意識に手が動いて本当に五円玉が回り出すのですが、それと同じように幸せと思って生きていると(自分自身の無意識の行動によって)現実も本当に幸せな状態になっていきます。
肯定的な心の状態は肯定的な現実をもたらし、否定的な心の状態は否定的な現実をもたらすということです。
この世界は私達の心が作り出している、ゆえに心の持ち方次第で全てを変えてゆくことが出来ると、仏教の認識論である唯識は語っているように思います。

 なお、今回取り上げた「幸せは自分で作る。不幸せも自分で作る。幸せも不幸せもまったく他人の仕業ではない。」というジャータカという仏教説話の言葉は、本来は悪いことをすれば悪い報いがあり、良いことをすれば良い報いがあるという悪因悪果善因善果を説いていると思われますが、唯識的なとらえ方も出来ると思い今回の稿を書いてみました。
物事の本質を捉えた言葉には色々な解釈が可能なのだと思います。
住職記

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