生死の中に仏あれば生死なし

 今年の夏も随分と暑かったですが、その暑い夏も終わり、次第に秋の風が感じられる季節となってきました。
お寺の庭に三本の桜の木があるのですが、この季節になると毎日たくさんの落ち葉があり、掃き掃除が大変です。
それほど大きな木ではないのですが、毎日結構な量の落ち葉が冬の中程まで続いて落ちてきます。
落ちてくる落ち葉の葉の一枚一枚にしてみれば、春に生まれて秋に死んでゆく訳ですが、桜の木としてみれば葉が落ちるというのは体の一部の新陳代謝。
そして、その本体の桜の木も年数が経てば次第に弱りいずれ死を迎えます。
 さて、今回は修証義というお経の【總序】という章の以下の一句を取り上げてみました。
(このお経の元の文章は道元禅師が書かれたものです)

「生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし、ただ生死即ち涅槃(ねはん)と心得て、生死として厭(いと)うべきもなく、涅槃として欣(ねが)うべきもなし、この時初めて生死を離るる分あり。」
−−修証義【總序】より−−

生と死は、このお経の文章の中で生死(しょうじ)と一つの言葉になっています。名は体を表すと言いますが生と死は二つで一つの事柄ということ。
生は必ず死へ至り、死のあるところにはいずれまた生が現れる。
生と死は生死という一つの事柄の表と裏と言えます。
ここで仏という言葉で表されているのは、この世の中に現れかつ消えてゆく命の姿である生と死を別個のものでは無く一つの「生死」として捉える力とでも言うべきものだと思います。
生の中にあって生に捕らわれるのではなく、死に捕らわれるのでもなく、あたかも大空を飛ぶ鳥が自らが生まれ出でた大地を俯瞰するように、生の中にあって生と死を俯瞰し、それがこの世界の実像であり全てであると感じ取る力とでも言うべきものが「仏」なのではと思います。

この文章を書いている今、少なくなってきた蝉の鳴き声がまだ聞こえて来ます。
今日かあるいは数日後にジィーッと鳴いて地に落ち、大地の虫たちの栄養となり、いずれその大地から死んだ蝉の子孫達が生まれ出でまた暑い夏を賑やかにしてくれることでしょう。
ウクライナの戦争は終わらず、日本では各地で大雨が降り、嫌なことの多い昨今ですが、嫌なことがあるということは良いこともあるのがこの世の中だと思います。
しっかと足下を見つめ、大地を踏みしめて歩いて参りましょう。

住職記

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