涅槃寂静

 人間の持つ煩悩(ぼんのう)を燃えさかる焔になぞらえて、その焔を吹き消して安らぎの境地に到ることを涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)といいます。
この涅槃寂静にいかにして到るかを説くのが仏教です。
先月取り上げた諸行無常、そして全ての存在は実体を持たないという意味の諸法無我、さらにこの涅槃寂静という三つの根本原理を合わせて三法印と言い、仏教である限り必ずもっている教えの基本要素であると言われます。
諸行無常と諸法無我を悟って涅槃寂静に到るというのが仏教の基本ということ。
諸行無常も諸法無我も本やネットで今は沢山の情報に接することが出来ます。
しかし、頭では理解しても全身で感覚的に感じ取る(悟る)というのはやはり簡単なことではありません。
であるがゆえに仏教が始まった時からいわゆる様々な「修行」があります。
私もかつて本山で修行しましたが、冬は寒く夏は暑く足は痛く空腹はつらく、肉体という入れ物にいかに人間が縛られた存在であるのかと言うことを身をもって思い知りました。
個人的には、肉体に煩悩が付随するものであるならば、とても煩悩を無くすなどと言うことは出来ないように思います。
にもかかわらず「煩悩を吹き消す」という言い方を仏教ではいたします。
吹き消せないのに吹き消せというわけです。
これはいわゆる禅問答のよう。
解決しようのない問題のようにも思えますが、結局は煩悩を吹き消そうという心自体を変容させて煩悩にとらわれない心へと変わることによって解決?するというのが禅的な考え方なのかなと思います。
しかし現実にはそれほど簡単に心の中身を変えられる訳はなく、スポーツ選手の肉体の鍛錬と同じように修行や本人の研鑽や意思の力で、自らの心を努力して少しずつ変えてゆく訳です。
その先に煩悩の中にあって煩悩にとらわれない心の平安があるということ。

二月は一年で一番寒い季節。
晴れた日にお寺のある高崎市から遠くの山を見ると、あちらこちらに雪をかぶって白く輝く峰々を見ることが出来ます。
そして、目を近くに戻すと変わらない雑然として多忙な日常。
この雑然とした日常の地続きにあの白い山々があることを思うと、人の心も鍛錬すればあのように美しくなることも可能なのかもと時々感じます。
住職記

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