久遠仏
久遠仏(くおんぶつ)とは、仏が釈迦としてこの世に現れたのは仮の姿で本当は遙かな遠い過去から遙かな遠い未来までこの世に存在し続けているという意味。
これは久遠実成(くおんじつじょう)とも言われ、法華経の寿量品に説かれていることです。
法華経は曹洞宗においても重要なお経であり寿量品の最後の偈文の部分は寿量品偈として日常的に読まれています。
久遠という言葉は、久しく遠いと書きますが、距離的に遠いという意味でなく時間的に遠いという意味。
しかし、人間の心理として時間的な遠さが心の中で距離的な遠さに無意識に変換されて感じられると言うことがあるように思います。
人間の時間感覚の基礎が太陽が空を巡ることによって出来上がっているためか、遙かな過去というとつい太陽が沈んでゆく西の空の彼方に意識が行ってしまう感じがあります。
なので、遙かな過去から遙かな未来に仏はいると聞くと、つい水平線や地平線の彼方の空を想像してしまうのではないでしょうか。
そして、仏教には浄土や極楽という考え方も別にありますので、つい混ざってしまって久遠仏という言葉も遙かな空の彼方にいらっしゃる仏様という感覚になってしまいそうです。
しかし、久遠仏とはそういうことではありません。
常に”ここに”いて下さっている仏様ということ。
そして、遙かな過去や未来と聞くと捉えどころがありませんが、結局時の流れの中心にあるのは常に今現在です。
過去と未来の結接点であるただ今この場所に常に仏は居て、無心に仏を求める者には、だれにでもいつでも姿を現す。
それが久遠仏−久遠の仏ということだと思います。
なにかこう書いてくるといつでもどこでも仏様がいっぱいで仏様に囲まれているような感じがあり、包まれているような安心感を感じます。
ちょうどお母さんのお腹の中の胎児のように。
そして周り中に有難う有難うと手を合わせたくなるような気分になります。
いつも有難う有難うと手を合わせていると、周囲の人の気持ちも和み、そこにもここにも仏様が姿を現してくることと思います。
どうぞ、色々なところでたくさんの仏様に出会って頂ければと思います。
住職記
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