竜門
五月はじめ、空には気持ちよさそうに鯉のぼりが泳いでいます。
最近は世の中で子供が減ってきたせいか鯉のぼりも昔ほど目にしなくなってきたように感じますが、ちょっと車で郊外に行った時などに大きな鯉のぼりが高く上げられ青空を泳いでいるのを目にすると何か妙に嬉しいような気持ち良いような気分になります。
我が子が健やかに育って欲しいという親の願いは、誰でもが持つ自然なものであるがゆえ、そんな願いを込めて上げられているであろう鯉のぼりを見ると、近所の子供の凧に天上大風と書いた良寛さんではないですが、どこまでも高く空を泳いでゆけというような気分に多くの人がなるのではないでしょうか。
さて、この鯉のぼり、鯉が竜門という名の滝を登り切ると竜になるという(登竜門の語源)中国の伝説に由来する日本独自の習慣のようですが、曹洞宗の開祖道元禅師の言葉の中にもこの竜門の話が出て参ります。ただ少し話が異なっていて道元禅師のお話しでは河ではなく海の中の話となり、鯉ではなく単に魚が竜になるというお話になっています。
以下原文と訳を引用します。
◆原文
海中に竜門と云フ処あり。浪頻に作なり。諸の魚、波の処を過ふれば必ず竜と成るなり。故に、竜門と云フなり。今は云ク、彼ノ処、浪も他処に異ならず、水も同ジくしははゆき水なり。然れども定マれる不思議にて、魚この処を渡れば必ず竜と成るなり。魚の鱗も改まらず、身も同ジ身ながら、忽に竜と成るなり。
◆現代語訳
海中に竜門というところがある。浪がしきりに打ち寄せている。様々な魚が、波のところを過ぎると必ず竜となる。それ故竜門と云うのである。今の話が云うのは、浪も他の場所と違わず、水も同じ塩辛い水である。然れども定まっている不思議な力で、魚がこの場所を渡れば必ず竜と成るのである。魚の鱗も変わらず、身も同じなのだが、たちどころに竜に成るのである。
《筑摩書房「正法眼蔵随聞記」水野弥穂子訳》より
この文章を書いた原著者は道元禅師の弟子の懐奘(えじょう)禅師という方です。
道元禅師の言葉を忠実に記録された方で、この「正法眼蔵随聞記」は師である道元禅師の言行録であり、大変分かりやすく書かれていて、道元禅師の教えの良い入門書になっています。
本題に戻ります。
この竜門の話はこの後更に続くのですが、道元禅師が竜門に託して言っているのは、ひとたび人が僧となって修行道場の寺に入り僧としての生活を始めれば、その僧はそのままで(厳しい修行を積んだり特に悟りを開くなどということがなくとも)釈尊の仏法を受け継ぐ一個の仏となるのだということ。
つまり、僧になるのと仏になるのが同時だと言っています。
道元禅師の和歌に「峰の色 渓の響きも皆ながら 吾が釈迦牟尼の声と姿と」というものがありますが、この世界が全て仏様の姿である、山も木も川も空も私達人間も全てが仏そのものなのだというこの世の全てと仏を同等に見る道元禅師の世界観の香りをこの竜門の話には感じます。
本来、この世は仏に満ちあふれている。しかし、仏を仏として知覚する術を持たなければその者にとって仏はこの世に存在しないのと同じ。
僧になると言うことはその術を得るということであるがゆえ、僧になるのと同時に仏になる−−ということなのかなと私は思います。
三月末、用事があって福井県の大本山永平寺に行って参りました。
境内入り口から参拝者入り口へと到るあたりは私が数十年前に修行していた頃とほぼ変わらず大変懐かしい光景でした。
その参道をこの春に新しく入門した若い修行僧達が頭に白いタオルを巻いて作務衣姿で掃除をしていました。
今年はあまり雪が降らなかったそうで建物の陰にもどこにも残った雪は見られませんでしたが、作務をする修行僧の姿は十年一日さらには百年一日のように変わらず毎年同じ光景が繰り返されているのでしょう。
沢山の若い竜たちを育み送り出している大本山永平寺、今回のお話しのように世の中に存在する竜門としていつまでも同じようにあって欲しいと思います。
住職記
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