杓底一残水 汲流千億人

 先月、福井県の曹洞宗大本山永平寺の竜門のお話しをいたしましたので今月はその竜門の門柱に刻まれている「杓底一残水 汲流千億人」という言葉について書いてみようと思います。
永平寺の境内の入り口の場所は竜門と呼ばれていますが、特に楼門等の建物があるわけでは無く参道の両脇に石柱が建っているだけです。
その石柱に刻まれているのがこの「杓底一残水 汲流千億人」という言葉。
読み方は、「しゃくていのいちざんすい ながれをくむせんおくにん」です。
そのままの意味は、「柄杓(ひしゃく)の底に残ったわずかな水 (その水の)流れを汲む千億の人」。
昭和の中頃の永平寺貫首熊沢泰禅禅師の漢詩から取られた言葉です。
川から柄杓で汲んだ水を必要な分を使って残りを元の川の流れに戻したという道元禅師の故事を漢詩に表したものです。
世の中に存在するもので、余分なもの意味のないものなど何一つ無い。
人も物も自然も全てが完璧にかけがえのないものである。
であれば、自分が使わずに柄杓の底に残った水もかけがえのないものであり、その水を川の流れに戻せばその水をまた共に生きる多くの人々が使うことが出来る。
自然やものを大切に、他者への思いやりを大切に。というのがこの言葉の趣旨です。
この世界の中で生かされているという感覚、この完璧にかけがえのない世界の一部として今自分はここに生を受けて生きているのだという感覚からこのような言葉が出てくるように思います。
道元禅師の時代には今の世の中で問題になっているような環境問題はなかったと思います。永平寺は山の中ですから水に困ることもなかったでしょう。それでも柄杓に残った水を大切にした道元禅師。
「生かされている」「他と共に生きている」という感覚があればこそなのではと思います。

話は変わりますが、先日、サラダを食べていたら中にカエルが入っていたというニュースをテレビでやっていました。
多分小さなアマガエルが洗っても落ちずにくっついたままで商品になってしまったのでしょう。
食べてしまった人も気の毒ですが、カエルも可哀想だったなと思います。
このニュースで思ったのは、人間の活動による自然への悪影響が昭和から平成初めにかけての頃より減ってきたのかなということ。
カエルは皮膚が薄く、住んでいる場所の水質など環境の影響を受けやすい生き物だということを聞いたことがあります。そのカエルがサラダの材料となる葉物の栽培環境で生息していたということは、それだけ生物に悪影響を与える農薬等が使われなくなってきたということなのではと思いました。
私達が捨てた水の流れを汲むのは千億の人だけではありません。人の数など問題にならないほどの多くの生き物がその水によって生きています。
現代に生きる私達は、他と共に生きているということを、道元禅師の時代よりさらに現実的に広く深く考えて行動していかなければならないのかも知れません。
住職記

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