いつまでもあると思うな命と時間

 自分が小学生や中学生の頃、先生や親の世代というのは世の中のことを何でも知っている自分たちとは隔絶した「大人」の人達という感覚がありましたが、時が経ちいざ自分がその「大人」の年齢になってみると精神的中身のあまりの変わらなさに我ながら情けないような苦笑してしまうような感覚を抱く時があります。
多分外から見れば外見が年を経て変わっているのと同じように中身もまた変わっている部分があるのだろうと思いますが、本人にしてみると、自分という存在がずっと変わらないように感じられるというのは誰しも同じなのかも知れません。
何十年も前の子供の頃から今までの自分について一貫して「自分」と感じられる自己同一性の感覚というのは人間が生きていく上で必要なものなのだろうと思います。
しかしこの自己同一性の感覚があるがゆえか、人はいつも自分の人生がまだずいぶん先までずーっと続いてゆくものとなんとなく感じている部分があるのではないでしょうか。
人生は有限です。
終わる時が来ます。
知ってはいるけれども、心では実は大概の人が受け入れていない自分はいつか死ぬということ。
現在、日本人の平均寿命は男81才、女87才だそうです。
平均寿命まで生きるとしてあと何年生きられるか?
少し客観的に考えてみるのは良いことかも知れません。
自分に残されているのはあと〜年と具体的に考えてみると、自らの有限な人生についてこれまでより現実味を持って感じられるのではないでしょうか。
西洋に「メメントモリ」という言葉があります。
”死を忘れるな”という意味の警句で、キリスト教以前から使われていました。
自分の命が有限であることを忘れがちなのは洋の東西を問わず今も昔も変わらないようです。

お寺の境内に桜の木が3本あり、秋になると毎日たくさんの落ち葉が落ちてきて日々の掃除が大変です。
これから日本は更に高齢化が進み、毎日たくさんの人が亡くなってゆくようになります。
自分もそう遠からぬ未来にひらひらと舞い落ちる大量の落ち葉の中の1枚として人生を終えて行くのかなと感じます。
限りある人生。
だから今どう生きて行くのか?
誰にとっても大切な究極の問題です。
住職記

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