命の行方

 今年の夏は本当に暑い夏でした。
北海道でも今年は異常に暑かったそうで、日本全国が記録的猛暑の夏になったことと思います。
常仙寺のある高崎では九月になってもまだまだ暑く、ようやくお彼岸になって多少涼しくなって来た感じです。
夏のあの暑い中でミンミンと蝉たちがよく鳴いていましたが、いつの間にか草むらの秋の虫達の声に交替し、気がつくとその虫達の声も次第に小さくなって来ています。
時の流れと共に、巡る季節と共に虫達は生まれそして死んで行きます。
虫達の身体は他の虫達に食べられてその身体の一部となり、あるいは土に帰って草や木の養分となり、また次の生命に引き継がれて行く。
地球上に生きる命あるものの身体は要素に分解してまた他の命の一部となって常にこの地球上を巡っています。
個々の命は常に生成と消滅を繰り返していますが、総体としてみれば地球上の生命は常に存在し続けていると言えます。
このような言い方は当世風の科学的なものの見方と言えるかも知れませんが、仏教の基本的な考え方は元々このようなものです。
般若心経の中に「色即是空、空即是色」という有名な言葉があります。
この言葉の言わんとするところは、蝉の身体で言えば、蝉という固定した存在があるわけではなく、様々な物質が集まって蝉の身体を縁によって構成しており、その縁がなくなって元の要素に分解し、その要素はまた他の縁によって他の生命の一部となってこの世界を巡っているということ。
巡っているからこそ蝉は蝉として毎年夏に鳴き、人は人として十月十日で生まれて来る。
そしてまた死んでいく。この巡っているということとこの世に存在しているということ自体が同義であるというのが色即是空、空即是色という言葉の意味です。
この世は巡るからこそこの世であるということ。
十月はノーベル賞の発表がある季節です。
かつて川端康成がノーベル賞受賞の記念講演で道元禅師の和歌「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」を引用して日本の美学について話しましたが、この和歌で表現されているのは季節それぞれの素晴らしさをあげつつ総体としてその美しい四季が四季として巡っているからこそ美しい(すずしかりけり)という感覚だと思います。
四季が巡り、時が流れるように人は年を取るものです。
幼い頃は一つ年を取ると大きくなったと喜ばれ、少年の頃は年上の先輩に憧れ、しかし老人になると年を取れば取るほど病気が増え人生の終わりに近づくがゆえなんとかして老化を食い止められないかと悪あがきをする。
全て自然なことです。
良寛さんは死ぬ間際に「死にとうない」と言ったそうですが、何か僧侶として一周回って元に戻ってきた感があり親近感が持てて良い感じです。

上の道元禅師の和歌では、秋は月。
この季節、夜ゆっくりと空を見上げて、お釈迦様も道元禅師も見ていたのであろう同じ月を眺めて、世の中を見透すその澄んだ心に思いを馳せてみてはいかがでしょう。
住職記

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