不殺生戒

 曹洞宗には仏教徒が守るべき十六条の戒(かい)というものがあります。
その中の十箇条は〜してはいけないという禁止事項を定めた戒です。
これを十重禁戒といいます。
その第一番目が不殺生戒(ふせっしょうかい)。
殺してはならないということ。
生き物にとって命は一番大事な物。
他の宗教であるキリスト教の戒律にも殺してはならぬという戒が入っています。
イスラム教でも多くの場面で殺人を戒めています。
宗教が人を幸せにしようとするものであるならば、殺すなかれという戒めがその教えの中に入っているのはごく自然であり当然とも言えます。
しかし、現実の世の中では世界の様々なところで戦火が止むことはなく、皮肉なことに殺生を戒めている筈の当の宗教の違いが紛争の原因となってしまっている地域もあり、殺し合いがいつ果てるともなく続いています。
昨年から続いているウクライナの戦争、そして最近起こったイスラエルのガザ地区の紛争、これらの地域のこれまでの歴史を踏まえると戦いはこれからも続いていくのだろうなと残念ながら思わざるを得ません。
お釈迦様が生きておられた時代にも戦争はやはりあり、人と人との諍いについて次のような言葉を遺しておられます。
「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。」(岩波文庫『真理のことば・感興のことば』より引用)
この言葉は本当に人間社会の真実だなと思うのですが、現実には殴られても家族を殺されてても黙って耐えろ(あるいは忘れろ)というのはなかなか難しいことのように思います。
現実世界がそうであるように、やられたらやり返すという人の心がある限り(現地の人々の気持ちを考えれば当たり前なのですが)およそ戦争が無くなることはないのだろうと思われ、なんとも暗い気持ちになります。
戦争は始まってしまうとお釈迦様の言葉のように連鎖反応や応酬でいつまでも続いてしまいます。
戦争を無くすにはどうしたらいいのか?
すでに始まっていることについては仕方ありませんが、これからのことについては当たり前ではありますが、始めないこと(そして始めさせないこと)がまず肝心ではないかと思います。
抑圧や差別や集団での虐待等々、戦争の火種になりそうなことはなるべく世の中からなくしていく。なくす努力をしていく。
そうすれば火のないところに煙は立ちませんから、戦争も始まりづらくなるでしょう。
始まらなければ連鎖反応も応酬も起こりようがありません。
人間にはやられたらやり返すという性質が元々あります。
他人に銃口を向けると言うことは、つまるところ自分に銃口を向けると言うことと同じです。
人に向けて撃った銃弾は、時間と場所を変えて自分や親しい人々に向けて戻ってくる。
これは個人であっても国などの集団であっても同じです。
そのことを念頭に置いて考え行動する。
結局、人間関係の基本である相手の立場に立って物を考えるということではないでしょうか。
地球上のどこに住んでいても人種や宗教が違っていても人間同士は必ずどこかでつながっています。
つながっているからこそ相手の立場に立って考えることが出来、また憎しみも生まれる。
人間同士は良くも悪くも皆同胞。
同胞を傷つけることは自分を傷つけることです。
自他の別を超えて痛みを共有できる鋭敏な感覚を人類皆が持てるようになった時自然に戦争は消えて行くのかも知れません。
住職記

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