道本円通

 十二月一日から八日まで禅宗の修行道場のお寺では摂心(せっしん)といって朝から晩までずうーっと坐禅をする特別に厳しい坐禅修行を致します。
坐禅は禅の修行の根幹です。
曹洞宗の宗祖道元禅師は中国での修行の後に日本に帰国し、まず初めに「普勧坐禅儀」(ふかんざぜんぎ)という文書を書かれ世の中の全ての人々へ坐禅を広める意思を示されました。
今回はこの普勧坐禅儀の冒頭の言葉を紹介させて頂きます。

【原文】
「原夫道本圓通争假修證宗乗自在何費功夫」
【読み下し文】 ()内は読み
「原ぬるに夫れ、道本円通、争か修証を仮らん。宗乗自在、何ぞ功夫を費やさん。」
(たずぬるにそれ、どうもとえんずう、いかでかしゅしょうをからん。しゅうじょうじざい、なんぞくふうをついやさん)
【意味】
「求めている悟りへの道は、元々遮るもの無くまあるく通じている、修行だの悟りだのという必要は無い。真実はありのままに現前している、人間の賢しらな行為は不要である。」

この冒頭に続いて文庫本にすると六〜七ページ分くらいの短い文章で普勧坐禅儀は成り立っています。興味のある方はネットで「普勧坐禅儀」を検索して頂くと全文が出てきます。
道元禅師のこの冒頭の言葉は、修行も悟りも否定しているように見えますが、続きの文章の中で坐禅こそが修行や悟りといった人間の分別を超えたまあるく通じた道(仏の道)そのものであり、仏道を求めるものは何をおいても坐禅をしなければならない。坐禅という”行”こそが仏道(仏行)であると説いています。
要点は、修行をして悟りを開くのではなく、坐禅を行ずることがそのまま悟りだということ。
坐禅イコール悟りということ。
坐禅をして心を磨き鍛錬して次第に悟りの境地に近づいていく…という考えを否定し、坐禅をしている時、人はそのままで仏なのだということです。
このことは、修証一等(しゅしょういっとう)という言葉で説明され、曹洞宗の教義の大切な特徴の一つです。
仏を求めるということにおいて修行も悟りも無い。ただ坐禅こそが仏の行であり坐禅を行じている正にその時にこの世界が仏の世界として現成(げんじょう:現れる意)する。
この道元禅師の世界観は誠にクリアであり、透徹した深く大きい意思を感じます。

坐禅をする時は、何も求めず何も考えず、ただ只管(ひたすら)に坐禅をする。
悩みや迷いがあるかも知れませんが、自分でなんとかしようとせず只管に坐禅をし、全てを坐禅にお任せしてしまう。
全てをお任せしきった所に仏様の姿が現れてくるということです。
坐禅は僧侶だけのものではありません。
やり方を教われば誰でも出来ます。
当山でも毎週日曜日に坐禅会を行っています。
ご興味のある方はご参加ください。
住職記

今月の言葉に戻る