無所得無所悟

 「無所得無所悟にて端坐して時を移さば、即ち祖道なるべし」
文意:得るところ無く悟るところ無く、ひたすら坐禅をして時を過ごす。これが即ち仏祖の道である。
これは、道元禅師の生前の言葉を弟子の懐奘禅師が記録してまとめた『正法眼蔵随聞記』という本の中に出てくる言葉で、最初の無所得無所悟(むしょとくむしょご)というフレーズは座禅の心構えを説明するときによく使われる言葉であり、曹洞宗の座禅の特徴を端的に表しています。
しかし、得るところ無く悟るところ無く(何も求めず)ただ坐るのが座禅。と言われても、最初は多くの人が?となるのではないでしょうか。
悟りまでではなくても心の落ち着きとか何か心の変化なりが得られると思って座禅をしてみようという訳ですから、何も得るところはありませんと言われると、どういうこと?という気持ちになるのは当然なことだと思います。
私なりに説明させて頂きますと、まず座禅というのはその坐っている場と同化することだと思います。
坐っているその場所の畳やふすまや柱や板の間と、また鐘の音と、外で鳴いている鳥と、一緒に坐っている他の人と、香炉に立てられている線香の香りと、その場の空気と、全てと同化する。
その場において自と他の別がなくなり一つになる。そうすると主客が無くなってしまいますので”得る”といっても得る主体が無いので”得る”という意味がそもそもなくなってしまう。であるがゆえに”無所得”。
無所悟も同様です。
自分が生きている世界と一体化するのが座禅ということなのだと思います。
得るものも無く、なくすものも無く、全てがある、それが座禅。

常仙寺でも毎週日曜日に座禅会をやっております。
理屈は理屈としてひとまず坐って頂き、その次はひたすら坐って頂く、そうするといつのまにか座禅を(毎週)しているのが当たり前になり、している方が調子よいという風になっって来るのではと思います。
私的には縦にも横にも体(と心)の風通しを良くするのが座禅なのかなと感じています。
住職記

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