到彼岸

 到彼岸という言葉、どこかこの言葉にはロマンを感じます。
何か見果てぬ夢というか、かなわぬと思いながら求めずにはいられないもの… そんな感じがこの言葉にはあるように思います。
先日、中国で作られた玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の映画を自宅で見ました。
ほぼ史実に基づいていると思われる伝記的な内容でした。
玄奘三蔵は七世紀の中国の唐の時代の僧。
仏教の真の教えと経典を求めて、中国からシルクロードを通って広大な砂漠を超え雪に覆われた山脈を超え遠くインドの地へ陸路で行き、インドの地では多くの僧院をめぐって仏教についてさらに研鑽を積み、そして多くの経典を携えて行きと同様にまた陸路で中国に帰ってきました。出発から帰国まで実に16年間にわたる合計3万キロの長大な旅でした。帰国した後、玄奘は持ち帰った膨大な数の経典の翻訳に残りの人生を捧げました。
これは今から1300年程前のことですので、車も飛行機もないので陸路であれば当然歩くか馬に乗るかラクダに乗るかしかありません。途中通っていく道には砂漠や一年中雪を頂いた険しい高山地帯もたくさんあります。山賊や盗賊もいたことでしょう。
中国を出発する時点ではおそらくかなりの確率で生きて帰ってこられないと当然考えていたと思います。
また中国を出る時点では国の許可のない密出国での出発でした。
仏教の深奥を極めたい、経典の原典をこの手に取って見てみたいという求道者としての強烈な思いが玄奘をして命がけのインドへの旅という途方もない行動に至らしめたのだと思います。
この玄奘三蔵のインドへの旅をもとにして書かれたのがかの有名な西遊記であり、アニメやドラマになって日本の私たちもよく知っています。
ちなみに、この玄奘三蔵のインドへの旅は玄奘三蔵自身によって「大唐西域記」という皇帝への報告記としてまとめられ後世の私たちも今読むことができます。

この玄奘三蔵の命がけの求法の旅をふまえて今私が思うのは、さて現代の世の中で命を懸けて何かに挑むということがどれほどあるのかな?ということ。
エベレストに登ったり、一人で太平洋をヨットで横断したりといういわゆる”冒険”をする人は時折います。
でもそれは”命をかける”こと自体が半ば目的であり、何か自分が求める大きな価値のために命を懸けて行動をするというのとは違うように思います。

現代の管理社会のなかでは、どこで何をやっても世の中の枠の中に収まってしまい、成功しても失敗しても全て世の中の想定内という感覚があります。
そしてそれが当たり前すぎて意識もされなくなっているのが現代の生活のようにも感じます。
ビニールハウスで栽培されている野菜のように生きているのが現代人の生活。というのが比喩として合っているでしょうか。
全てが微温的であり、管理されています。
そんな中で生きていると、なかなか命がけで何か行動を起こそうという風にはならないのかもしれません。

ても、やはりビニールハウスの外側は存在します。
広い世界が現実に存在しています。
そして、生まれたものがいつか必ず死ぬということは玄奘三蔵の時代も今も何も変わりはありません。少し長く生きるようになっただけ。
人は必ず死にます。
到彼岸。
特に若い人には、真実を求めて、あるいは大志を抱いてビニールハウスを破ってどんどん外に出て行ってほしいなと還暦を過ぎた身で草むらで鳴く虫の音を聞きながら思っています。
住職記

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