南無

 「南無」(なむ)という言葉は仏教において一番大切な言葉ではないかと私は思います。
「南無~」とは~に帰依しますという意味。
帰依(きえ)とは、全てを全面的に受け入れ自らの身と心すべてを委ねるということ。
南無釈迦牟尼仏と言えば、釈迦牟尼仏(お釈迦様)にすべてを委ねるということであり、
南無阿弥陀仏と言えば、阿弥陀仏(阿弥陀様)にすべてを委ねるということであり、
南無妙法蓮華経と言えば、妙法蓮華経(法華経)にすべてを委ねるということです。
仏教において、あるいは宗教において、絶対的な大きな存在(仏教の場合は仏)に自らのすべてを委ねる、帰依するということは宗教としての核心です。
すべてを委ねてしまうと、世の中の義務や責任から解放されて、赤ん坊の時にまったくの無防備の状態で母に抱かれていた時のように心地よい安心感を得ることができます。
人は生きてゆく道筋で、様々な困難に出会います。
現実から逃げ出したくなることもあります。
そんな時にすべてを赦してくれ、無条件で自分を受け入れてくれる大きな存在に自分の存在すべてを投げ出し、受け入れてもらう。
どんな大きな重い荷物でも受け取ってくれる存在。
その大きな存在が仏であり、神。
ときおり、仏教(特にお釈迦様の頃の初期の仏教)は神のような絶対者を前提とせず、どこまでも現実を見つめてこの世の真実を自分の身と心で体感し了解することを目標とする宗教というよりは哲学であるというような言説を聞くことがあります。
確かにそのように言われるような性質が仏教にはあると思いますが、でもやはり、哲学がどこまでも哲学のままでは人は救われないのではないかと私は思います。
哲学は基本的に自分で考えることがその本質。
ですが人間は多くの煩悩を抱え死に向かって生きている悩み多き存在であり、どこかで考えることをやめ無条件に自分を投げ入れてそしてそれを受け止めてくれる対象がないと最終的な心の安寧つまり救いは得られないのではないかと思います。
いつまでも考えていると、考えているうちに死んでしまいます。
現実に生きているいま苦しみから逃れたい、心の安らぎを得たいと思うのは自然なことです。
有限なる存在である私たち人間は、無限かつ永遠なる存在である神や仏に自らのすべてを委ねた時、永遠なる存在に繋がることができ、限りなく深い安心を得ることができるのだと思います。

常仙寺の宗派は禅宗の曹洞宗です。禅という形に己のすべてを委ねて安心を得るのが宗旨。
座禅をして無心になる必要はありません。
ただ座禅をする。
考えないでただ座る。
すべてを座禅にお任せする。
その時その人は永遠なる仏の世界にいる。
仏とともにいる。
仏とともにいる安らぎの時間がそこにあります。
常仙寺では毎週日曜日の朝に座禅会をしております。
どうぞご自由にご参加ください。
住職記

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